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【田辺市】熊野出会いの里「ゲストハウスomoya」過去の自分、新しい自分と出会う場所

過去の自分、新しい自分と出会う場所


和歌山県田辺市本宮町。世界遺産「熊野三山」の参拝客を平安時代からもてなしてきた土地だ。綺麗な青色に輝く熊野川を見下ろせる、どこか神秘的な空気さえ漂う山合いの高台に、継ぎ手を探す築120年の古民家ゲストハウスがある。(なんて綺麗なロケーション!)

おおかたの人がイメージするであろう理想の“古民家“がこんなところにあった!
これが継業を検討している「ゲストハウスomoya」

omoyaを知るには、「熊野出会いの里」を知る必要がある。
熊野出会いの里は、農業体験や研修生受入を軸に、熊野の魅力を伝え、定住者を呼ぶことを目的に、熱い想いの元、立ち上げられた。単にゲストハウスを引き継ぐだけでなく、里の理念に共感し、その上でゲストハウスを継業し、独立して生計を立てつつ、里の魅力を発信していける方を探している。
omoyaの継業と、熊野出会いの里は切り離せない関係だ。
この里を営む麻野吉男さん、佐代さんご夫妻からお話を伺った。

鍬一本で生きる

(畑で栽培した芋、柿たくさん出していただきました。美味しい!ごちそうさまでした!)

-ゲストハウスの話に入る前に、まずは吉男さんが熊野出会いの里を始めるに至った経緯を聞かせてください。東京大学文学部卒業後(すごい!)すぐ農業の道へ?

「俺は、農業と農民のこと、食べ物のこと、有機農業のことをずっと考えてたきた。そういうところを話さないとと思ってる。サラリーマンになる気は学生の頃からなかったわけ。だからといってこれをやろうというのもなく、ものを書こうと思ったけど、書きもんで食えるほど才能もなく、ほとほと困ったわけ。それでしょうがないから、塾の教師をやってた。お金は稼げたけど、お金に惹かれてる訳でもなく、いつまで続けるんやろうってずるずるやってたら、結局ノイローゼになってしまった。それで一年間七転八倒して、ある時、農業に出会ったんやな。」

「うちはもともと兼業農家やったんやけど、土地は荒れ放題で、そこを最初耕したわけ。それで、それを耕してるうちに、ああ俺が求めてたのは、こんな世界やったんやと思い始めたわけ。わからんかったけど、こういう世界に、自分の心も体もフィットするというか。悩んだ末に、鍬一本で生きようと。凄い決心をしたな。そこから農家の道をずっとやってきた。」

-農業はそれが初めてだったんですか?

「家が兼業農家やったから、責任もってなにかをつくったことは無かったけど、小さいころから好んでたわけ。ただ、そのころ、農民になるなんてみんなが反対する時代だった。やけど、ノイローゼになって、地獄の底を見てきた者が言うわけやから、百姓になることは誰も反対しなかった」

-その頃の生活はどのようなものでしたか?

「5年間は畑と家の往復しかしなかった。それで頭がおかしいて言われて。まだ神経症が治ってないと笑。ずーっと仕事してたね。一日16時間くらいやってた」

-16時間!?農業以外何もしていない笑。農業だけで生計を?

「3年で食えるようになったかな。最初は野菜を市場に出したけど、あまりにも価格が安いから、世間の農業に対する評価の低さにびっくりした。こんなもんでは農業では食えないと思って、家の前で売りだしたんよな。大阪の藤井寺というところで、人はいたから飛ぶように売れた。新鮮やし安全やしな。そこでね、学校給食とか病院のまかないに野菜を入れるという人が来るのよね。学生や病人にこそ、新鮮なもんを食わさなあかんのに、鮮度が落ちて値段を落としたものを買うわけ。それから野菜と健康・医療の関係をより考えるようになった。」

世間と農の現場、認識の溝

-それが有機農業について、いろいろ活動される始まりですか?

「そうやな。70年代くらいからヨーロッパでエコロジーという言葉が出てきて、80年代くらいから一般的になりつつあった。食べ物や環境への関心が高まって。でも70年代のそういった会合に参加したら、農民はほとんどいないわけ。学者とか学校の先生がほとんど。食べる側の人ばかり。有機農業の会と言いつつ、ほとんど消費者の会やったんよね。あーこういう世界なんかと。」

「無農薬、有機農業は当たり前だと、そういう人達は言うけど、農民がそこまでいくのは大変な道のりがある。栽培っていうのは既に人工的なことなわけで、栽培にどうしても必要な農薬はあるわけ。そんな農薬と商品価値を高める農薬は違う。だから、消費者の側からそう無下に、何も使わないよう農民に要求してもそうなかなかできるものじゃないわけよ。そんなギャップをどうにかしたいと思ってた。結果責任を負う作物をつくる人間が、そんなママゴトみたいなことはできないわけよね。だから、その認識の溝を埋めやな、農民の大変さ、農の大切さ、素晴らしさは伝わらないと。」

-世間の農業の評価の低さ、理解の低さが、熊野出会いの里での農業体験のルーツなんですね。

「そう。消費者オンリーの農の世界の間口をもっと広げたいと思った。こんなこともあったよ。1986年に朝まで生テレビで、-竹下内閣を占う・米の自由化を巡って-という討論会に呼ばれて。討論のプロと討論しても負かされるだけやと、一度は断った。やけど、編集できたら小綺麗になるけど、生テレビやからなんでもありや笑。むちゃなこと言うてきたら、評論家の頭どつたろかと笑。それで出たよ笑。そんな風に、メディアでも農を発信したよ。」

百姓天国


-麻野さんは本も執筆されているんですよね。どんなものがありますか?

「農業の専門家っていうのは、農学博士とか政治家とか学者とか、そういう人が主に農業の意見を言ったり、リードしたりしてたんやけど、農業の主役は現場でやってる百姓自身やというのを世間に知ってもらいたかった。それで1991年(47歳)に現役の百姓で会議を重ねて、農民側から発信していこうと、百姓のネットワークをつくって「百姓天国」という本をつくった。農民っていうのは、長いものに巻かれろとか、物言わぬ農民とかって扱いを受けてきたけど、この辺で我々から一発かましたろうやないか!と、呼び掛け人になって発行した。」

「普通の農業本は、見識のある人が書いて、農民側が有り難く拝読するってことやけど、この本は逆に農民側が書き手になり、これまで書いてた人が読む、読んでた人が書くという本。10巻以上出版したかな。農業ジャーナリスト賞も受賞したんやで。百姓の原稿は8枚が原則やけど、じいさんなんか230枚書く人もおって、それを俺が8枚に編集せなかんくて、大変やったわ笑。」

-インターネットがまだ普及していない時代に、農民の生の声を発信するツールを出したというのは画期的ですね!

ある人物との出会い~里のはじまり


-そんな折に、大阪から和歌山に移ったのは、どうしてでしょう?

「ん-。農業のあまりの忙しさ。毎日が農業に追われるというか。もう一回、落ち着いて農業を見つめ直したいという思いがあったんやな。1997年に52歳ですさみ町佐本に移住した。それで村おこしに関わって、一方で、川遊びばっかりして少年時代に返ったような生活を送ってたわ笑。
その後、今の場所(田辺市本宮町)熊野に移ったわけ。当時、百姓天国の仲間と全国各地でその場所の百姓を集めて、「百姓出会いの会」という集まりやってた。それを熊野でもやるぞとなったんやけども、熊野には百姓がほとんどおらんくて。それやったら百姓だけじゃなく、活動家とか、めぼしい人が集まるような、そういう会にしようと思ったわけね。」

「そこで、当時本宮町議員の鈴木末広さんという素晴らしい人物との出会いがあったわけ。本宮町に来てくれと熱烈に誘われ、想いを受け、本宮に移った。鈴木さんは、本宮を本気で変えようとしていて、地域からの人望も厚く、本当に素晴らしい男で。二人で、この本宮熊野の地で、農を通じて若者定住や交流人口の拠点をつくろうと計画を立てた。どういう名称にしようかと二人で悩み、鈴木さんから「熊野出会いの会」をきっかけに出来た場所やから、「熊野出会いの里」にしたら?という提案を受け、今の出会いの里が生まれたんや。繋がってきたやろ?」

-繋がってきました!熊野出会いの里の取り組みはどんなものだったんですか?

「1999年立ち上げ時の企画書では、農業体験、農業研修生を通じて、自然や人との出会いはもちろんのこと、過去の自分・新しい自分との出会い、森羅万象との出会いとか、そういうのを含めた出会いの里にして、定住者を増やそうというようなものやな。他にも、「里人」を募集して、地域情報をその人に流して、地域の外に住んでるけど、歩く宣伝隊の役割をしてもらうとか、今でいう‘ふるさと納税’の仕組みや企画があったな。」

-凄いですよね。今でこそ移住交流は全国的な流れですけど、ふるさと納税だったり、関係人口だったり、今の流れを先取りしている企画書ですね。

「そうかもしれんな。やけど、鈴木さんが直後に他界してしまった。その熱い想いを、なんとしても絶やすわけにいかないと、関係者の協力もあって、里を引き継ぎ、現在に至ってる。鈴木さん無くして、今の里はない」

里で生まれる絆


研修を通じて農家になったり、定住したりする方はいましたか?

「大阪にいた頃は、研修生が何人かいたわけよ。プロを目指す人を育てて、一人でも多くの農民を増やしたいと思ったし、まあその、俺がいうといつもそうなってしまうけど、アナーキー的な雰囲気があって、農業を目指す人だけじゃなしに、自由空間というか、駆け込み寺みたいな感じで訪ねてくる人もいた。いろんな人が来たんやけど、妻の佐代もその一人やな」

-そうなんですか!佐代さんは農業を志して?

(佐代さん)
「そうですね。そこでは、ナリワイとして農業をやりたいという人が多かったんですよ。」

(吉男さん)
「そうやな。とにかく一人前にするために2年くらい、研修に入ってもらって、なんぼか小遣い程度こっちが与えながら従事してもらって、生産を手伝ってもらい、また巣立っていって、他で農業をやってもらう。それをこの熊野に移ってからもしようと思ったんやけど、こっちの場合は都市近郊と違っての熊野に根付いてほしいという思いがあったわけ。うちに何年間かいて、この近辺に定住してもらう。そういう人が自然と出てきたな」

(佐代さん)
「熊野は野菜をつくる条件的には意外と厳しくて、野菜農家としてやっていっている方は少ないん
ですけど、自給野菜をしながら、他のナリワイをして暮らしていく人がほとんどですね。」
(吉男さん)
「だから、プロを育てるというよりかは、農的経験から、いろんな出会いをつくってもらおうという場になった。それが定住につながってるんやな。県が一生懸命定住支援をやってるけど、俺らは一銭ももらわずそれを勝手にやってた笑。できたら、県からなんぼか欲しいな笑。」

(佐代さんが、指折り〇〇さん、〇〇ちゃん・・・とすらすらと定住した方のことをを話す。人口が少ないこの地で、麻野さんご夫婦との出会いで定住する。地域での繋がりを強く感じる。)

(吉男さん)
「知らないところへ来て、ワンクッション一定期間ここにいて、農的体験もして、そしたら地域のことを知ってきて、地域の人との繋がりができてくるんよね。そういうことをこれからもやっていきたいよね。」

(佐代さん)
「定住してくれた人が、また定住者を呼ぶ流れもできている。」

今でいう短期滞在住宅みたいですよね。それを先進的にやっていて、更に農的体験を組み混んでやってきたと。凄いなぁ…。

ゲストハウスomoyaが目指すもの

-そんな熊野の出会いの里で、この築120年の古民家でゲストハウスを始めたきっかけを教えてください

(吉男さん)
「もともとは住居として使っていて、別に居を構えてからは、母屋はイベントや知り合いの方の宿泊に使ってた。農業研修生で、数組が定住してくれて、農業だけで食べていく地域じゃないし、その定住者のために、他に何か収入をつくる仕組みをつくらないとということで民宿を始めたことがきっかけ。他にも養鶏をしたり。なんせ熊野に住んでもらいたいという思いがいつもあった。ここに入る人は、自給農業をしつつ、他のナリワイで生計を立てていき、定住していく。そんなことで、2009年まではずっと農業中心に出会いの里を運営していて、その後民宿母屋をスタートして、今春ゲストハウスomoyaと改め、現在に至っている。」

-農業をしつつ、他のナリワイでというのが、田舎特有ですよね。定住者のための収入づくりというのがルーツなんですね。ゲストハウスの運営で、お2人が大切にしてきたことはありますか?

(佐代さん)
「里、ゲストハウスに滞在してもらうことでよみがえってもらえるような場所になればいいですね。」

(吉男さん)
「それとね、自然が加工されないで残っているよね。それに触れるだけで良くなる人もいてる。
あとは、一期一会の心でもてなし、目の前の相手を知って、生の声をきくこと。」

(佐代さん)
「出会いの里は南側が開けた高台にあって空が広い。天気が良ければお日様もお月様もずっと見られます。雨の日もまたいいし。縁側でただ景色を眺めてボーッとするのもよいですよ。春は山菜とり、夏は蛍も見られます。」

-日本の原風景が残る場所ですよね。今回、ゲストハウスを継業しようと思った理由を改めてお聞かせください

(佐代さん)
「吉男さんも高齢になって、色んな面で今まで通りにはいかなくなっています。私自身おもてなしというより裏方向きということもあるし。インターネット時代に追いついていなかったり、出会いの里でこの古民家を活用しきれていない。そういった点で、我々にはできないところを若い力で継業していただいて、その人はその人でゲストハウスで生計を立てながら、この熊野出会いの里としても魅力を発信していただきたいですね。」

-どんな方に継業してもらいたいですか?

(佐代さん)
「ここは本宮の中心部である本宮大社辺りから車で10分ほどの山の中の一軒家、温泉地からも少し離れています。でも、この500mほどの山道を上がって来て、里に着いたとたんにパーッと開ける。ここならではの魅力があると思う。それを満喫して、お客様に伝えられる方。」

「それと、他にもいろんな人がこの出会いの里に関わっています。今春からゲストハウスを手伝ってくれている女性(五十嵐さん)が、以前農業研修生の宿舎だった建物で、シェアハウスの起業を始めようとしていたり、若い大工さんがオーダー小屋のモデルハウスを計画していたり、植樹や間伐による森の再生の実験場があったり。敷地が広いので色んな可能性がある。その中で共同体としてやっていける方がいいですね。」

(吉男さん)
「それとね、出会いの里には農ができる人が必要。農が軸でないといけない。農に興味のある若い人にも来てもらいたい。」

(佐代さん)
「余談ですが、来年中に見晴らしのいいベランダのある自宅を開放する予定あり。(50m先に引っ越し)カフェやレストランもできますよ。」

-ゲストハウスを継いだら、一日の流れはどんな感じになるでしょうか。

(佐代さん)
「朝は早起き、お客様の朝食を用意します。夏場だと朝から収穫の体験を希望される方がいらっしゃいますね。その場合は朝食前にご案内する。今のところ農体験は吉男さんが担当します。
芋掘りなどの場合は、チェックアウトまでか、チェックイン後の場合があり、連泊の方は日中もあり。ゲストハウススタッフはチェックアウトのお客様をお送りし、その前後布団やカバー類を洗濯、干して、お掃除をして日中はひと休みかな。
午後からは洗濯もの取り入れ、お客様のお迎え、夕食とお風呂の用意。現在は朝食のみですが、ぜひ新鮮な野菜を活かした夕食を提供してほしいですね。後片付け、朝食の準備などの後、就寝~って感じですね。合間に予約のチェックや返信、フェイスブックの記事アップ、など。
こんなところでしょうか。けっこう忙しいです笑。」

 

何気ない娘の一言

-地域への愛情ってどんなものでしょうか?

「そうやなー。熊野川とは毎日顔を合わせていて。日々、水の恩恵を感じている。ただ、単純にそれだけではなくて、美しく見えても、ダムによって濁りができいて、それは単純にダムがダメということでなく、高度成長期まで遡って、深いところで人の歴史まで考えないといけない。その歴史の元、我々は暮らしているわけで。そういうことを感じながら、地域への愛情を日々抱いている。
それと、この場所は人との出会いをくれる。」

-最後に、移住や継業を考えておられる方に一言をお願いします。

「今日、自分がこう話していて気づいたことは、
【人の出会いを中心として、この熊野に定住してくれる若い人を何らかの形で応援したい】ということやね。大阪にいる2番目の娘に、こないだなすびを送ったんやけど、電話かかってきてね。その時に、なすびのあまりの柔らかさと美味しさに、思わず涙がこぼれそうになったって。そう言ってきたわけ。ああそんなこと言うようになったかと。そういうのってね、すごい人間の深いところで癒やされるわけや。それで、場としてね、この里がそういう場になればと思ってるわけや。
啓発運動とかそういうこと以外に、なんでもない、人間の日常の仕草や会話の中に、訪れてくれた人の未来が見えるような場所になったらと。

事業所名 熊野出会いの里「ゲストハウスomoya」
HP https://www.omoyakumano.com/
メール:kumanodeainosato@yahoo.co.jp
事業内容:古民家ゲストハウスの運営、里の魅力発信
所在地:田辺市本宮町
対象者:移住者継業支援プロジェクトに登録済みの移住(希望)者里の理念を理解し、運営できる方(農に興味・関心のある方が望ましい)
引継条件:応相談
引継内容:応相談
住居提案:応相談
※継業に関するお問い合わせは下記にご連絡ください
和歌山県移住定住推進課 073-441-2930 e0222001@pref.wakayama.lg.jp