西尾 香織(にしお かおり)さん

広島県→紀美野町

広島県出身。勤めていたデザイン事務所を退職後、移住先を探して各地をまわる。和歌山県に移り住んでからは、前職の経験を活かしてグラフィックデザインの仕事を開始。仕事でたまたま目にした桑添勇雄さんの棕櫚箒(しゅろほうき)の美しさに感動し、弟子入りした。5年間の修行を経て独立。現在は紀美野町の仕事場兼住宅にて夫婦二人、愛犬一匹と暮らしている。

海、桜、山。こういう場所で暮らしていけたら。

紀美野町の山奥の方へと車を走らせると、大きな銀杏の木のそばに一軒の家がある。出迎えてくれたのは棕櫚箒製作舎の箒職人・西尾香織さんとご主人、そして愛犬のはなちゃんだ。空き家になっていた古民家を借り、傷んだ部分を改修して暮らしている。家のなかには薪ストーブやピアノ。家の裏には畑があり、飼育している鶏のチャボやアローカナも。生活の一つひとつから、ゆったりとした丁寧な空気があふれる。

西尾さんは前職を辞めた後、移住先を探すなかで友人を頼りに和歌山県を訪れた。

「移住先を見つけるためと、旅行も半分あって、九州とかいろんな場所に行ったんですよ。そのときに和歌山県にも来て、主に和歌山市内から海沿いを何泊かしながらずっとドライブしました。桜がきれいな時期で、海、桜、山があって、きれいな場所だなと。どうせ、生きていくなら、こういう場所で仕事しながら暮らしていけたらなと思って。和歌山いいなって思ったんですよ」。

その後、友人に連れられて行った喫茶店のオーナーの前で「和歌山に住みたい」とぽろっと口にしたところ、仕事や住む場所を紹介してもらうことになり、西尾さんの移住はとんとん拍子に決定した。

棕櫚箒の名匠・桑添勇雄さんの箒との出会い

西尾さんが棕櫚箒と出会ったのは、移住後まもなくのことだった。喫茶店のオーナーから紹介された印刷会社の仕事として、最初に担当したのは和歌山県の観光ガイド冊子の制作。県内の歴史や文化を学ぼうと図書館で郷土資料を読んでいたところ、後に師匠となる職人・桑添勇雄さんが手掛けた棕櫚箒の写真が目に映った。西尾さんは、その箒に出会ったときの印象を今も鮮明に覚えている。

「伝統工芸として素敵っていうのもあるんですけど、師匠が作る箒の佇まいが素晴らしいというか、惹きつけられるものがあって。そのときに読んだ記事が、師匠がもう70代なんだけれど後継者が一人もいないというような記事で、『ああ、もったいないな』と思ったのが最初です」。

職人になって棕櫚箒とその伝統技術を継承したい。そんな思いが芽生えたが、さまざまな迷いや不安、和歌山に来てからお世話になった方々への申し訳なさから諦めることを選んだ。

「ほかの人が継ぐだろう。私がやることはない」。そう気持ちを落ち着かせるも、ずっと気になり続けていた棕櫚箒。4年間デザインの仕事を続けた後、西尾さんはとうとう桑添勇雄さんに弟子入りすることを決意。29歳のときだった。

棕櫚箒職人としての桑添さんの特徴は、注文する方の希望にあわせた「誂え物」の箒を製作できるという点だ。棕櫚箒は「玉」と呼ばれる棕櫚の束を組み合わせて作る。箒の種類によって「玉」の太さなどを微妙に調整する必要があるのだが、職人は握ったときの手の感覚だけでそれを覚える。

「誂え物」の箒を製作できる職人がほとんどいないなか、多種多様な箒を正確に再現することができる桑添さん。その技術をすべて習得したい。西尾さんは、棕櫚箒の「玉」を枕元において握りながら寝るほど、毎日懸命に箒作りにいそしんだ。

その甲斐あって、技術の習得にかかる最短年数だと言われていた5年間で、西尾さんは見事に桑添さんに認められ独立。ご自身が立ち上げた棕櫚箒製作舎で箒を作りつつ、現在は伝統を残そうと試行錯誤する日々を送っている。

「学校掃除のために師匠が構造やデザインを考えて作った箒があって、40年、50年前までは実際に小中学校で使われていた時代があるんです。今、棕櫚箒は県内だけではなく紀美野町内でも認知度が低くて。それはすごく危機感があったので、去年初めて町内の小中学校に棕櫚箒を50本納品したんです。和歌山で作った本物の箒を、子供たちが見たり使ったりする機会を持ってもらうだけでもいいかなと思っていて。箒のことや棕櫚にまつわる歴史的なことを、子供たちに知ってもらうために、とにかく何かやっていこうと思っています」。

棕櫚箒製作舎の工房。用途によって大小様々な種類の箒がある。

かつては国産の棕櫚が豊富にあったが、昭和40年頃に国内での棕櫚の生産が途絶えてからは、輸入した棕櫚のなかから良質なものを選り分けて使用している。しかし、箒に使用できるような長くて質の良い棕櫚は年々手に入りにくくなっているという。

日々のなかで感じる、「この方がいいんだな」という小さな感覚を大切にして

以前住んでいた家は紀美野町の「きみの定住を支援する会」に紹介してもらったという西尾さんだが、今の家は自分たちで探して見つけたそう。棕櫚箒の販売や材料の調達にもインターネットは欠かせない。しかし、それと自動車さえあれば生活には困らないのだという。買い物に行く際は車で30分ほど隣町まで足を運ぶが、畑で育てている野菜があるので買い物のためだけに出かけることはめったにない。

「収入が少なくてもやっていけるように家も探し、生活も考え、みたいな感じですね。棕櫚箒は紀美野町の地場産業なので、できれば町内で暮らしたいと思って一年くらい探してやっと見つけたんです。

箒の仕事があるので自給自足できるほどには農業に時間がさけないし、ほどほどに自分に合う感じの生活にしてるのかな。薪ストーブも、できれば灯油じゃない方がいいなとか。もらった薪が燃やせるならそれを使えたらなとか。そういうちょっとした『この方がいいんだな』っていうことをやるようにしているというか」。

取材が終わるとご主人がお昼ご飯を用意して待ってくれていた。畑で育てたお野菜とチーズの薪ストーブ焼き。

どうしても必要なものは、丈夫で長く使えるものを選んで購入する。箒も長く使えるものを作る。丁寧な、少し控えめな口調で「仕事も暮らし方もあまり矛盾がないようにしたい」と西尾さん。街中で暮らしていたころと生活は徐々に変わり、これからも変わっていくだろうと話す。

紀美野町では、少なくとも江戸時代後期には棕櫚箒が作られていたという。箒だけでなく、束子やロープ、マットなど多様に姿を変え、長いあいだ人々の生活とともにあった棕櫚。丈夫に作り、傷んできたら何度も修理をして大切に使う。そんな昔ながらの暮らしが、この町にはまだわずかに息づいているのかもしれない。

 

HP:棕櫚箒製作舎